<幼年期> | |
1947年(昭和22年)3月6日 | |
神戸市弓木町2丁目6番地に、父 宮本 熊市、母 雪恵の長男として誕生。 父は、自動車部品を扱う事業の経営者。 | |
1950年(昭和25年)3歳 | |
父の郷里、愛媛県南宇和郡一本松町に隣接する城辺町に転居。 病弱であった母と腺病質の息子の健康と、父自身の事業家としての次なる躍進を期し、大阪の事業をすべて放棄しての転居。 | |
1952年(昭和27年)5歳 | |
大阪市北区中之島7丁目7番地に転居。西区九条の幼稚園に入園するが、半年で退園。 当時は、左利きを右利きに矯正させられる時代で、何事に対しても、厳しいしつけを売り物とする園にとっては、多大な世話がかかるため、体よくお払い箱になった。幼稚園中退である。 | |
1953年(昭和28年)6歳 | |
大阪市立曾根崎小学校に入学。 まさに歓楽街のド真ん中にある学校までは遠く、バス通学であった。 | |
1954年(昭和29年)7歳 | |
父の母 ふさ(82歳)は、老人性痴呆の症状があり、ある日突然失踪し、消息不明のまま葬儀を出した。大型台風による高潮のため、地下倉庫の商品が全滅、父の事業は大打撃を受けた。この台風によって乗客1167人を乗せた洞爺丸が転覆した。 |
<少年期> | |
1956年(昭和31年)9歳 | |
富山市豊川町に転居。 富山市立八人町小学校に転入。 父の事業のための転居。しかし、事業は思わしくなく、夏には父一人、大阪に戻った。母と二人、富山市大泉本町に転居。都会育ちの孤立しがちな少年であったが、やさしい荒井先生との出会いがあった。母は気候が合わず、喘息になる。 | |
1957年(昭和32年)10歳 | |
尼崎市立難波小学校に転入。 父の事業の失敗に伴い、1年間の富山生活に切りをつけ大阪に戻り、尼崎に住む父の妹の元に預けられ、親子別々の生活になる。 | |
1958年(昭和33年)11歳 | |
大阪市福島区上福島2丁目に転居。 両親との生活に戻る。 | |
1959年(昭和34年)12歳 | |
私立関西大倉中学校に入学。 この頃、貧困の渦中にあった上、父の女性問題など、様々な問題で両親の諍いが絶えず、内にこもりがちであった。そして現実から逃れる場所として押入れの中での読書が始まった。 この時読んだ、井上靖「あすなろ物語」の感動が読書に熱中させる。両親の喧嘩、母のアルコール依存症、そして母の自殺未遂という大きな事件により、さらに読書への耽溺を深めていく。 | |
1962年(昭和37年)15歳 | |
私立関西大倉中学校を卒業、同高校普通科に入学。 父に最後といえる事業再発のチャンスが訪れ、自動車修理と板金塗装を専門とする工場の経営を始めた。 押入れの中での読書は続き、山本周五郎「青べか物語」、ファーブル「昆虫記」コンラッド「青春」など人生に大きな影響を与えた本との出会いがあった。 |
<青年期> | |
1965年(昭和40年)18歳 | |
私立関西大倉高校普通科卒業。 大学受験に失敗、浪人生活に入る。 受験勉強はせず、中之島図書館に通い、ロシア文学、フランス文学、に耽溺したため、希望校の受験に再び失敗するも、無上の財産を心に蓄積出来た1年であった。 | |
1966年(昭和41年)19歳 | |
追手門学院大学文学部に入学。 体育会テニス部に入部。 創設されたばかりの大学だったため、体育会、文化会とも様々なクラブが設立され、まだまともな練習グランドを持たない中、コート作りから始めなければならなかった。翌年同大学に入学してきた大山妙子と出会う。 | |
1969年(昭和44年)22歳 | |
父死去。享年70歳。 大東市泉町2丁目3番25号に転居。 この頃、経済苦のため道路工事、バーテン、ウェイター、ホテルのボーイ、中央卸売市場などアルバイトを転々とする。 晩年、父はほとんど家に帰らず、女性(35歳)の所に入り浸りであった。事業に敗れた父は、家には一銭のお金も入れることが出来なくなっていた。その後、脳梗塞で倒れ、後遺症のため不自由な体で暴れ狂い転院を余儀なくされ、最後は鍵のついた精神病院に送られ、そこで亡くなった。 息子を溺愛し、あらゆる面において息子の最大の教育者であった。 父が亡くなり、父の残した多大な借金の取り立てに逃げるようにして、母とともに転居。 母と住む小さなアパートには殆ど帰らず、道頓堀界隈を得体の知れない若者と連れ立ち、酒や博打に明け暮れていた。学生でありながら講義も受けず、社会の猥雑たる汚れの中で、絶えず重い疲労を体に宿らせていた。そんな時代であった。 | |
1970年(昭和45年)23歳 | |
追手門学院大学文学部卒業。 出席日数と単位不足で厳しい状況を追試でしのぎ、何とか卒業。 この大学生活がのちに「青が散る」となる。 |
<社会人期> | |
1970年(昭和45年)23歳 | |
サンケイ広告社に入社。コピーライターとして企画制作部に配属。 この頃、競馬に熱中。競馬必勝法なるものを考案。小金虫(こがねむし)クラブなるものを設立。危うくサラ金地獄に。 | |
1972年(昭和47年)25歳 | |
大山妙子と結婚。 伊丹市御願塚6丁目6番地11号にて母と3人での生活始まる。 結婚の前年、突然奇妙な病気にかかる。電車の中で強い眩暈と動悸に襲われ、以後毎日発作に苦しみ死の恐怖に陥る。医者の診断は「強度の不安神経症」。通勤にも困難をきたす。 | |
1974年(昭和49年)27歳 | |
長男、陽平誕生。 この頃初めて小説を書く。タイのガイドブックを使いバンコクを舞台に「無限の羽根」を書く。 翌年、「文學界」新人賞に応募。2次予選で落選。のちの「愉楽の園」の原型である。 | |
1975年(昭和50年)28歳 | |
サンケイ広告社を退社。 仕事中に襲う恐怖が極限状態となり退社。以後、本格的に自宅で小説を書き出す。 次男、大介誕生。 この頃、同人誌「わが仲間」主催者の池上義一氏との出会いがあった。「あなたは天才かもしれない」という氏の励ましが原動力となり作品を書き出す。 | |
1976年(昭和51年)29歳 | |
建設金物業の和泉商会に再就職するも2ヶ月で退社。 この頃書いた「舟の家」を「泥の河」と改題し太宰治賞に応募する。 | |
1977年(昭和52年)30歳 | |
池上義一氏が経営する、美容理容業界向けのPR誌の製作販売会社に入社。 |
<作家 30歳〜40歳> | |
1977年(昭和52年)30歳 | |
「泥の河」で第13回太宰治賞を受賞。 「宮本輝」というペンネームは、池上義一氏の命名による。 | |
1978年(昭和53年)31歳 | |
「螢川」で第78回芥川龍之介賞を受賞。 芥川龍之介賞を受賞し、作家として生活できるようになる。 |
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1979年(昭和54年)32歳 | |
肺結核で伊丹市民病院に入院。その後、西宮市の熊野病院に転院。 芥川龍之介賞受賞後、体調を崩したまま友人と東北旅行へ行き喀血、翌年、病院で肺結核と診断された。その東北旅行が、のちに「錦繍」となる。 退院。その後、自宅療養に入る。 伊丹市中野北1丁目4番5号に転居。 当時の伊丹市長・矢埜氏の好意で土地を借り、入院中に自宅が建築される。 |
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1980年(昭和55年)33歳 | |
結核療養後の健康を心配してくれた知人の紹介で、軽井沢に貸別荘を借りる。 滞在中、母の胃癌が発見され、手術。このことが、のちに「眉墨」となる。 これ以降毎年夏、仕事場を軽井沢に移す。 |
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1981年(昭和56年)34歳 | |
「泥の河」が小栗康平監督により映画化、公開。 モスクワ国際映画祭 銀賞受賞。これ以降次々と作品が映画化、ドラマ化される。 |
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1982年(昭和57年)35歳 | |
朝日新聞連載小説の取材のため、東西ヨーロッパから更に黒海までドナウ流域を下る6カ国(西ドイツ、オーストリア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア)へ取材旅行。初めての海外取材。 のちに「ドナウの旅人」となる。ハンガリーのブタペストで通訳をした青年、セルダヘイ イシュトヴァーンが翌年留学のため来日。3年間、日本での保護者となる。神戸大学大学院にて修士課程を終え帰国、彼との生活が、のちに「彗星物語」となる。 「道頓堀川」が深作欣二監督により映画化。 |
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1983年(昭和58年)36歳 | |
アメリカンビーグルの子犬が来る。「マック」と命名。 ギリシャへ取材旅行。のちに「海辺の扉」となる。 日中文化交流協会の日本作家代表団として中国訪問。 父の愛した中国に訪問、中学3年生の時に読んだ「家」の作者、巴金氏と逢う。 野性時代新人賞の選考委員となる。(1985年迄) |
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1986年(昭和61年)39歳 | |
文藝春秋連載小説のため、タイへ取材旅行。のちに「愉楽の園」となる。 ドイツ、ハンガリー、オーストリアへ取材旅行。 日中文化交流協会の日本作家代表団として2度目の中国訪問。 |
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1987年(昭和62年)40歳 | |
「優駿」で吉川英治文学賞を受賞。 歴代最年少での受賞となる。 タイを再訪。 「螢川」が須川栄三監督より映画化。 |
<作家 41歳〜50歳> | |
1988年(昭和63年)41歳 | |
三島由紀夫賞の選考委員となる。 東ドイツ、ポルトガル、スペイン、トルコ取材旅行。 このポルトガル取材がのちに「ここに地終わり海始まる」となる。 「優駿」が杉田成道監督により映画化。 |
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1989年(昭和64年・平成元年)42歳 | |
エジプト旅行。 「夢見通りの人々」が森崎東監督により映画化。 「花の降る午後」が大森一樹監督により映画化。 |
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1990年(平成2年)43歳 | |
演劇「スター」作・プロデュース 筒井康隆 新神戸オリエンタル劇場 の舞台に立つ。 12月 井上靖氏と対談。(翌年1月井上氏逝去) 「流転の海」が斎藤武市監督により映画化。 |
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1991年(平成3年)44歳 | |
アラスカ取材旅行。 写真家の故・星野道夫氏とデナリを旅する。 母、死去。享年79歳。 4月に脳梗塞で倒れた母は、半年後逝去。 |
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1992年(平成4年)45歳 | |
「宮本輝全集」刊行開始。翌年完結。 アラスカ再取材旅行。 すばる文学賞の選考委員となる。(1996年迄) |
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1993年(平成5年)46歳 | |
「彗星物語」の韓国語版の刊行を機に韓国訪問。訳者の金賢姫と会う。 | |
1994年(平成6年)47歳 | |
アラスカへ3度目の取材旅行。 | |
1995年(平成7年)48歳 | |
阪神大震災で自宅壊滅。 伊丹市高台のマンションに仮住まい。(1年3ヶ月) シルクロード取材旅行。 中国からパキスタンまで6700km横断(約40日)。この取材がのちに「ひとたびはポプラに臥す(全6巻)」になる。 「幻の光」が是枝裕和監督により映画化。 ヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞ほかを受賞。 |
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1996年(平成8年)49歳 | |
芥川龍之介賞の選考委員となる。 伊丹市梅ノ木に転居。 |
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1997年(平成9年)50歳 | |
「私たちが好きだったこと」が松岡錠司監督により映画化。 |
<作家 51歳〜> | |
1999年(平成11年)52歳 | |
長男、陽平、星崎利恵と結婚。 パソコンを始める。 愛犬 マック死去。 18歳の長寿を全うし安らかに永眠。 殆ど時を同じくして、セルダヘイ イシュトバーン、駐日ハンガリー特命全権大使として日本に赴任。 シルクロード紀行「ひとたびはポプラに臥す」原稿用紙1400枚を脱稿。 |
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2000年(平成12年)53歳 | |
「ひとたびはポプラに臥す」完結記念講演会(富山市) 「ひとたびはポプラに臥す」全6巻完結。 |