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| <作家 30歳〜40歳> |
| 1977年(昭和52年)30歳 |
| | 「泥の河」で第13回太宰治賞を受賞。 「宮本輝」というペンネームは、池上義一氏の命名による。 |
| 1978年(昭和53年)31歳 |
| 「螢川」で第78回芥川龍之介賞を受賞。
芥川龍之介賞を受賞し、作家として生活できるようになる。 |
| 1979年(昭和54年)32歳 |
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肺結核で伊丹市民病院に入院。その後、西宮市の熊野病院に転院。
芥川龍之介賞受賞後、体調を崩したまま友人と東北旅行へ行き喀血、翌年、病院で肺結核と診断された。その東北旅行が、のちに「錦繍」となる。
退院。その後、自宅療養に入る。 伊丹市中野北1丁目4番5号に転居。
当時の伊丹市長・矢埜氏の好意で土地を借り、入院中に自宅が建築される。 |
| 1980年(昭和55年)33歳 |
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結核療養後の健康を心配してくれた知人の紹介で、軽井沢に貸別荘を借りる。
滞在中、母の胃癌が発見され、手術。このことが、のちに「眉墨」となる。 これ以降毎年夏、仕事場を軽井沢に移す。 |
| 1981年(昭和56年)34歳 |
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「泥の河」が小栗康平監督により映画化、公開。
モスクワ国際映画祭 銀賞受賞。これ以降次々と作品が映画化、ドラマ化される。 |
| 1982年(昭和57年)35歳 |
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朝日新聞連載小説の取材のため、東西ヨーロッパから更に黒海までドナウ流域を下る6カ国(西ドイツ、オーストリア、ユーゴスラヴィア、ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア)へ取材旅行。初めての海外取材。
のちに「ドナウの旅人」となる。ハンガリーのブタペストで通訳をした青年、セルダヘイ イシュトヴァーンが翌年留学のため来日。3年間、日本での保護者となる。神戸大学大学院にて修士課程を終え帰国、彼との生活が、のちに「彗星物語」となる。
「道頓堀川」が深作欣二監督により映画化。 |
| 1983年(昭和58年)36歳 |
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アメリカンビーグルの子犬が来る。「マック」と命名。 ギリシャへ取材旅行。のちに「海辺の扉」となる。 日中文化交流協会の日本作家代表団として中国訪問。
父の愛した中国に訪問、中学3年生の時に読んだ「家」の作者、巴金氏と逢う。 野性時代新人賞の選考委員となる。(1985年迄) |
| 1986年(昭和61年)39歳 |
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文藝春秋連載小説のため、タイへ取材旅行。のちに「愉楽の園」となる。 ドイツ、ハンガリー、オーストリアへ取材旅行。 日中文化交流協会の日本作家代表団として2度目の中国訪問。 |
| 1987年(昭和62年)40歳 |
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「優駿」で吉川英治文学賞を受賞。
歴代最年少での受賞となる。 タイを再訪。 「螢川」が須川栄三監督より映画化。 |
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| <作家 41歳〜50歳> |
| 1988年(昭和63年)41歳 |
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三島由紀夫賞の選考委員となる。 東ドイツ、ポルトガル、スペイン、トルコ取材旅行。
このポルトガル取材がのちに「ここに地終わり海始まる」となる。 「優駿」が杉田成道監督により映画化。 |
| 1989年(昭和64年・平成元年)42歳 |
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エジプト旅行。 「夢見通りの人々」が森崎東監督により映画化。 「花の降る午後」が大森一樹監督により映画化。 |
| 1990年(平成2年)43歳 |
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演劇「スター」作・プロデュース 筒井康隆 新神戸オリエンタル劇場 の舞台に立つ。 12月 井上靖氏と対談。(翌年1月井上氏逝去) 「流転の海」が斎藤武市監督により映画化。 |
| 1991年(平成3年)44歳 |
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アラスカ取材旅行。
写真家の故・星野道夫氏とデナリを旅する。
母、死去。享年79歳。
4月に脳梗塞で倒れた母は、半年後逝去。 |
| 1992年(平成4年)45歳 |
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「宮本輝全集」刊行開始。翌年完結。 アラスカ再取材旅行。 すばる文学賞の選考委員となる。(1996年迄) |
| 1993年(平成5年)46歳 |
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「彗星物語」の韓国語版の刊行を機に韓国訪問。訳者の金賢姫と会う。 |
| 1994年(平成6年)47歳 |
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アラスカへ3度目の取材旅行。 |
| 1995年(平成7年)48歳 |
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阪神大震災で自宅壊滅。 伊丹市高台のマンションに仮住まい。(1年3ヶ月) シルクロード取材旅行。
中国からパキスタンまで6700km横断(約40日)。この取材がのちに「ひとたびはポプラに臥す(全6巻)」になる。
「幻の光」が是枝裕和監督により映画化。
ヴェネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞ほかを受賞。 |
| 1996年(平成8年)49歳 |
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芥川龍之介賞の選考委員となる。 伊丹市梅ノ木に転居。 |
| 1997年(平成9年)50歳 |
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「私たちが好きだったこと」が松岡錠司監督により映画化。 |